うぶめのなつを読んだけど、

  • よつばと!は「これかわいいんだよー」とかれしちゃんに勧められた。よつばとまわりのひとたちが、きっとその人たちにとっては何てことのない日常の中で何度でも笑わせてくれるし、その何てことのない日常がたまに泣けてくる。よつばととーちゃんかわいい!潔く柔くは、いくえみ先生ってたぶんさんじゅうこうはんかよんじゅっさいくらいにはなるんじゃないかと思うんだけど(少女漫画家の年齢を推量するのはなんとなく気が引ける)、この「今時」っぷりはなんだろうか。制服の着崩しかたとか私服のセンスはもとより、彼氏の髪の毛を切る彼女が「亀梨君みたいなるから」と言うほんの小さいふきだしひとつで、この子たちはいま生きてるんだなと自然に思わせてくれる。その亀梨君がいやみじゃないんだもの。それでこのいま生きてる高校生が、幼馴染の死と従兄弟の死と中学生のときに好きだった人の死で繋がって、それは普段の教室でマクドナルドで笑いながら生きている、とある高校生の内包する「彼は死んだ」というただひとつの事実なだけで、圧倒的な現実の中で日々過ぎて行くっていう。いくえみ先生は消失を知って生きているひとを描くなあ。いないことが現実なんだってわかって生きているひと。
  • 風光る。作者はセイに甘い、と思う。セイ/清三郎=女の子/武士で、その「/」を繋いでしまったのが「沖田先生」。21巻はそこをもっかい考える巻だった。セイちゃんにとって、自分が生きることと他人の命を奪う理由が「沖田先生」。生きる理由っていうのが「沖田先生のために自分の命がある=沖田先生を守って死ぬ」という志。それを「恋は狂気」の一言でまとめるのは甘いんじゃないか。「沖田総司」をすべての理由にすることに、もっと執着していいんじゃねーの、と。好きな人に、自分の屍を越えて生きていてほしいと願うことは、好きな人は自分の意思の範疇にないとはなから諦めているわけで、恋は狂気というのならこのひとを自分のものにしたいとか何で思わないのセイちゃん!正直きれいすぎてつまんない。総司もセイちゃんもお互い諦観してるのにものすごくベタベタ甘えるから、このひとたちは結局天然のバカップルで、見ているこっちがやりきれねえ!なんかわたし歪んでるのかな・・・。純粋な少女漫画を邪な記憶が偽造しているかも知れないから今度実家に帰ったらちゃんと通して読んでみよ・・・。